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「日本人が海を渡ってホノルルマラソンへ(4)」レース後はカピオラニ公園で「ピクニック」

2021年6月04日

ホノルルマラソンを特集した見開き1ページ

ホノルルマラソンを特集した見開き1ページ


ランナーズ創刊編集長の下条由紀子が1980年代「ホノルルマラソン誕生秘話」を綴ります(日本人がホノルルマラソンを走るようになったのは弊社=旧株式会社ランナーズがツアーを組むようになってからです)。

カピオラニ公園では、日本から来た大きなグル-プやツアーは独自にテントを張り、そこは着替えをしての休み所であると同時に各グループ、独自のランチ(飲み物と昼食)が用意されていました。当時は「日本のお弁当」風なものではなく、大きなトレイにサラダやごはん(チャーハンなども)野菜炒め、そしてスープ、果物などというものでしたが、42.195kmを走って疲れ切った(それに加えて、スタートが5時のため、起床は2時頃、多くのランナーの前夜の睡眠時間は多分4~5時間といったところでしたから)ランナーたちにはほとんど食欲がなかったのです。

なお、そんな光景を現地では「ピクニック」と呼んでいました。広大な公園のあちらこちらで大小様々な集団が受け取ったばかりの完走シャツに着替えて、飲んだり食べたりした光景が広がっていました。なお、マラソン完走後の最大の楽しみはビール、という人は多い(私も!)日本と違って、ハワイ州の法律では外(公)の飲酒は法律違反でしたので、公園内ではビールを飲むためには仮設テントの中に限られていました(注意どころか警官に見つかると逮捕されます)。

初めてのホノルルマラソンですっかり大会が気に入ってしまった高石ともやさんは、その後、7歳になる長男と一緒に走ったこともあり、最終走者として、多くのランナー、関係者に喝さいを浴びたのはもちろんです。

当時、午前5時、真っ暗闇の中、スタート直前には打ち上げ花火が上げられ、参加者のあげる大歓声の中、一斉スタートするホノルルマラソンは「ゴールする意思のあるランナーには門戸を閉じない」という考えで運営されていました。常夏の土地ですので(12月は雨期にあたりますが、それでも日があるうちは20℃以下にはならないので)全コース歩いて8~10時間くらいかかっても完走することができ、上記の高石さん親子も温かい拍手の中、無事、フィニッシュラインを越えた光景(40年以上前です)が思い出されます。


プロフィール

自己ベストを出した1987年ウイーンマラソン
自己ベストを出した1987年ウイーンマラソン

下条由紀子(しもじょう・ゆきこ)
株式会社アールビーズ取締役副社長、月刊ランナーズ編集局長。
フルマラソンは完走150回、自己ベスト3時間02分31秒(1987年オーストリア・ウイーン)。
ランナーズ創刊後の1976年12月に第4回ホノルルマラソンを出走、翌年からランナーズホノルルマラソンツアーを開始。1979年の第1回東京国際女子マラソンの参加者告知に関わり、自身も同大会に出場。著書に『ベストジョギング―走る楽しさ生きる歓び (新潮文庫) 』。
※今後のコラムで「ホノルルマラソン」「東京国際女子マラソン」を取り上げます。






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