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市民ランニング小史

市民ランニング小史(1970年代)

市民ランニング小史

1970年(昭和45年)

<9月>

【海外】「ニューヨークシティマラソン」の第1回大会開催。セントラルパークを4周するコースに127人が集まる。

1971年(昭和46年)

日本高齢走者協会発足。老壮年ランナーの扇の要の役割を果たす団体となる。2年後の73年には社団法人日本タートル協会と改称。初代会長は岡田英夫氏。

<9月>

【海外】フィリップ・ハンプトン・ナイト氏により設立されたナイキ社は、オレゴン州の小さなスポーツ店としてスタートしたにすぎなかったが、1970年代のジョギングブームに乗ったのをきっかけに、その後アメリカを代表するスポーツメーカーに成長。

1972年(昭和47年)

<2月>

熊本走ろう会
が熊本市で創立。名誉会長に金栗四三氏を迎え、医師の加地正隆氏、堤貞一郎氏が中心になってその後、全国で広がっていく「走ろう会」活動の中核的役割を担うようになる。

写真 : 翌年の1973年には「天草パールラインマラソン」を開催。加地会長の「遅いあなたが主役です」の名キャッチフレーズが全国の老壮年ランナーの共感を呼び、健康マラソン大会の草分けとなった。

翌年の1973年には「天草パールラインマラソン」を開催

1973年(昭和48年)

<3月>

チャンピオンスポーツの道を歩んできた山西哲郎氏(当時、群馬大学講師)が東京・千駄ケ谷で初めて約30名の市民ランナーたちを指導。その後、山西氏は市民ランナーのジョギング指導の第一人者となる。

石河利寛氏著「走る本」が刊行された(徳間書店)。

1974年(昭和49年)

<4月>

【海外】「第78回ボストンマラソン」開催。参加女性42名のうち、日本生まれの日本人女性、美智子ゴーマン(38歳)が2時間47分11秒のコース新で優勝した。

写真 : 渡米10年後の快挙だが、ゴール後のインタビューで「私は東京から来た」と答えた

渡米10年後の快挙だが、ゴール後のインタビューで「私は東京から来た」と答えた

1975年(昭和50年)

<4月>

「第79回ボストンマラソン」に日本の市民ランナー13名がツアーを組んで参加。当時の参加資格は3時間30分、2,400人が出場、ノーゼッケンランナーも多数見受けられた。沿道の観衆は50万人。なお、ボストンマラソンはこの2年前の第77回大会より女子の部を新設している。

<9月>

「国際高齢者走大会」(タートルマラソン)が山梨県山中湖畔で開催され22カ国2,800人が出場した。この大会は全国のランニングクラブ設立の契機になり、その後の中高年ランナー増加につながっていく。

写真 : 「タートルマラソン」のおかげで、仲間と走る楽しさを知った中高年が多かった(写真は翌年のコベントリー大会に向けた壮行記念会の様子)

「タートルマラソン」のおかげで、仲間と走る楽しさを知った中高年が多かった(写真は翌年のコベントリー大会に向けた壮行記念会の様子)

1976年(昭和51年)

<2月>

第10回青梅マラソン」開催。東京オリンピックから3年後の1967年、「円谷幸吉と走ろう」をキャッチフレーズに始まった当時、メインレースの30kmに出場した選手は182人だった。が、今大会では5,517人と実に30倍の参加者増(全種目トータルでは7,813人)。さらにこれ以降も毎年参加者は増え続け、ついには抽選制が導入されることになっていく。

写真 : 青梅を走る山田敬蔵(左)と美智子ゴーマン(中央)

青梅を走る山田敬蔵(左)と美智子ゴーマン(中央)

走る仲間のスポーツマガジン『ランナーズ』創刊号発売。ランニング人口が急増していく状況を背景に、走る世界の情報発信基地として、またハウツー誌としての期待と役割を担っての出発だった。創刊号は青梅マラソンの大会会場で販売し、注目された。

写真 : わずか32ページだったランナーズ創刊

わずか32ページだったランナーズ創刊号

<12月>

第4回ホノルルマラソン」開催。この大会で佐々木生道さん(60歳)が日本人として初めて出場。全参加者もわずか1,670人だった。

写真 : 佐々木生道さんはホノルルマラソンを最初に走った日本人だった

佐々木生道さんはホノルルマラソンを最初に走った日本人だった

1977年(昭和52年)

<7月>

ランニングと音楽活動を自然にドッキングさせてユニークな芸能活動を送る高石ともやさんが自ら率いるグループ、ナターシャーセブンが「孤独のマラソンランナー」と題したレコード発売。ちなみに、このころの高石さんは5kmで17分を切ること、マラソンでサブスリーを達成することを目標にしていた。

写真 : ジョギングコンサートなど、楽しい催しもたくさん開いたナターシャセブン

ジョギングコンサートなど、楽しい催しもたくさん開いたナターシャセブン

<10月>

【海外】1976年にアメリカ建国200年を記念して、ニューヨーク全5区を走り抜けるコースに変更された「ニューヨークシティマラソン」。これが人気を呼び、変更後2年目のこの年、参加者は5,000人を超えるビッグレースになった。男子はビル・ロジャース(アメリカ)が2時間11分28秒で、女子は美智子ゴーマンが2時間43分10秒でそれぞれ優勝。ともに2連覇だった。

写真 : 世界一の大都市ニューヨークに、世界一のフルマラソン。このあと参加申込者数は年々増える一方

世界一の大都市ニューヨークに、世界一のフルマラソン。このあと参加申込者数は年々増える一方

<12月>


昨年は日本人がたったひとり出場した「ホノルルマラソン」に、マラソンツアーで140名が参加。

写真 : 「ホノルル」の観衆に応える日本人参加者たち

「ホノルル」の観衆に応える日本人参加者たち

1978年(昭和53年)

【海外】前年(1977年)に出版されたジム・フィックスの「THE COMPLETE BOOK OF RUNNING」が大ベストセラーになる。また、ケネス・クーパー博士著「エアロビクス」もベストセラーを記録。アメリカでは1960年代から心臓病患者の増大が問題にされ“肥満”が社会病化していた。クーパー博士は、それを打開しようと一般の人々にエアロビクス運動を提唱。ジム・フィックスのランニング理論とともに大いに社会に受け入れられる。同時に、カーター大統領が77年就任以来、その日課としてランニングを行い、これがアメリカ人の新しいライフスタイルとして多くのマスコミに取り上げられた。

<3月>

第1回国際女子マラソン」がアトランタで開催。アメリカの化粧品メーカー・エイボンがスポンサーとなって初めて誕生した女性だけのマラソンで、世界歴代20位のうち12人を含む187人が参加。3時間を切ったのが10人、4時間を切ったのが70人、完走者136人だった。日本からはただひとり藤井弓子さんが出場。なお、大会後“女子マラソンを五輪に”が決議された。

写真 : ランナーズ創刊2号の表紙にもなった藤井弓子さん

ランナーズ創刊2号の表紙にもなった藤井弓子さん

<11月>

アメリカでベストセラーのトップになっている「ザ・コンプリート・ブック・オブ・ランニング」が邦題「奇蹟のランニング」としてクイックフォックス社より刊行される。ジョギングの神様と呼ばれたジム・フィックス・著。

写真 : ランナーズ創刊2号の表紙にもなった藤井弓子さん

<12月>

瀬古利彦が「第13回福岡国際マラソン」で初優勝。タイムは2時間10分21秒だったが、マラソンのスター誕生を鮮烈に印象づけた。

写真 : 第1集団の中でロジャース(中央)をマークする瀬古(右隣)。大会は、海外の豪華メンバーが参加したビッグレースだった

第1集団の中でロジャース(中央)をマークする瀬古(右隣)

「第6回ホノルルマラソン」に付随してAMJA(アメリカ医学会ジョギング協会)の主催でマラソンシンポジウムが開催される。全米から70名近い医師が集まり、ランニングに関する人体生理学、生化学、生体力学、体育学、病理学、整形外科学など多岐にわたる研究発表が行われた。日本からは大阪の医師・萩原隆氏が参加。

写真 : 「高血圧だから注意しよう」というマーク。もともと「ホノルル」は、心臓病患者のためのフルマラソン大会として始まった

「高血圧だから注意しよう」というマーク

1979年(昭和54年)

<11月>

世界で初めて国際陸連が公認した女子だけのマラソンレース「第1回東京国際女子マラソン」が誕生。海外から18人、国内からは32人の選手が参加した。選手は全員招待で、国内選手は夏場から合宿を繰り返し、この日に備えた。優勝はイギリスのジョイス・スミス。2時間39分48秒のゴールだった。

写真 : 東京国際女子のサヨナラパーティで国内外の参加者たちは「蛍の光」を歌い出し、「また来年も」と再会を誓い合った

東京国際女子のサヨナラパーティで国内外の参加者たちは「蛍の光」を歌い出し、「また来年も」と再会を誓い合った