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ランナーズ賞

2000年 第13回ランナーズ賞受賞者

受賞者

歌うこと、走ることで人々をランニングの世界に誘い続ける

高石ともやさん

高石ともやさん

フォークシンガーとしてはもちろんだが、我々にはトライアスリート、ウルトラランナーとしての印象が強い。30歳でアメリカに渡り、そこで出会った「ランニング」に魅せられた。以後ホノルルマラソン、ハワイアイアンマン等に出場。各地のランニング大会にもゲストとして参加、その歌と笑顔で多くの人を走る世界に誘ってきた。45歳でオーストラリア・シドニー~メルボルン1011km(ウエストフィールドラン)、51歳の時にはアメリカ横断4754km(ロサンゼルス~ニューヨーク、トランスアメリカ・フットレース)を完走するなど、常に新しいことに挑戦してきた。
「まだまだこれから。80歳までどういう活動ができるか。そのために自分が弱いとどうしようもない。寝たきり老人化を防止するために走っているんです。自分に元気があれば人を元気づけられますし、自分が幸せであって初めて人に拍手を送れるのだと思います」
中央(東京)から離れたところで自分で道を切り開いてきた。ギター1本で歌い始めたフォーク、ゆっくりから始めたジョギング。両方とも草分け的存在といえる。
「歌手だけやっていたら儲かるかもしれないけれど自分らしく生きられない。でも走っていれば逃げ道がある。『ランナーですから』とね(笑)。逆に走るのが遅くなっても『歌手ですから』。いわば2足のワラジをはいてきたんです」
人に負けないように生きてきた30歳までの価値観が、カリフォルニアで転換した。
「走ることでもなんでも、それまでは頑張ること、苦しいことがいいことで楽しいことはだらしない、と教えられてきました。それがそこでは『ゆっくり走ろうよ、楽しいことがいいことなんだ』」
人と違ってもいい、お上でなく自分たちで作り上げた文化。最初に道を切り開いた人の功績を称える風土。パイオニア精神が評価されるアメリカの市民文化が、自分の楽しみで走り出し、ギターもコンサート会場も自分たちで調達してきた高石さんの生き方と重なる。
「古い芸能界の言葉に『42・56(しにごろ)』というものがあります。42歳から56歳までが嵐の時期、つらい時期であり、いろんなものと格闘している期間。これを越えたら円熟するという意味合いもあります。私はこの時期にアメリカ横断を走って生き方のコツを学んだんです」
文句を言っていたら走りきれない途方もない距離。この完走以降、高石さんはグチを言わなくなった。すると音楽の仕事はすべてうまくいくようになった。
「きっとマラソンの神様が僕にくれたごほうびなんですよ」
自分が生まれ変わったアメリカを折り返しポイントのようにして、あと2年で振り出しの60歳になる。かつて一緒にステージにたったザ・ナターシャセブンが 20年ぶりに再結成。2000年にはサロマ湖100km、皆生トライアスロンにもしばらくぶりで出場した。60歳になったら昔走ったレースをまわってみるつもりだという。
「ランニングから教わったのは、みんなが同じフロアに立ってお互いをほめ合うこと。そういう賞であるランナーズ賞で表彰されることは大変な喜びですね」

高石 ともや(たかいし ともや)
1941年北海道生まれ、62年にシンガーソングライターとしてデビュー。30歳でアメリカ・カリフォルニアに渡り、そこでジョギングと出会う。 77年にホノルルマラソン初参加、以降89年ウエストフィールドラン1011km(豪)、トランスアメリカ・フットレース4754kmのほか、トライアスロンでも活躍した。昨年12月にはランニングのオリジナル曲を集めたCD「自分をほめてやろう」リリース。

イベント・クラブを通じ、地域の健康ラン、生涯ランの普及に尽力

天野耕兵衛さん

天野耕兵衛さん

金沢中央走ろう会の創立者であり代表の天野耕兵衛さんがランニングを開始したのは50歳の時。長年勤めた中学校教員から教育委員会体育課に転勤になってから。学校では地理の教員だったが、赴任した小学校には体育教師がおらず、年が最も若かったことから天野さんが体育を教えることになった。それ以降、子供と一緒に身体を動かしていたが、次第にウエストが多少気になってきてはいた。それが転勤先では全くのデスクワーク。体調は目に見えて悪くなった。県民の健康管理をする職務なのに自分が不健康ではいけないと、走り出した。75年に金沢中央走ろう会を創設、現在会員数は130人を数える。市民にもオープンにしている10時間リレーマラソンや健民トリムマラソンなどのイベントのほか年2回の「健康体力づくり講座」も開催し、生涯スポーツの重要性を伝える。さらに初心者、高齢者、女性向けに「金沢ランニングクラブ」「金沢レディスジョギングクラブ」「高齢者ジョギングクラブ」などの会を次々に設立、毎週朝夕に定期的にジョギング講習会を開くなど、週5日予定が入る。ハガキで走行距離や体調を申告する、ユニークな通信制のランニングクラブも行う。八面六臂の活躍だ。 10代から20歳くらいまで、栄養失調や結核、腸チフスなどで身体を壊し健康のありがたみを身にしみて感じた原体験がある。体力が落ち、10cmの段差を上がれなくなったこともあった。
「ご飯は毎日食べる、毎日寝る。なのになぜ運動を毎日やらないのか、というのが私の考え方。人類の歴史は長いこと食べるために歩いたり走ったりしてきました。動かなければ死んでしまうからです。今、食べたいものはお金を出せば手に入りますが身体は動かさない。その結果生活習慣病にかかってしまう。それを防ぐためには月1回のゴルフではなくて、毎日行う、競わない軽度の有酸素運動が有効なのです」
体力づくりは40歳、遅くても50歳から始めるべきと言う。体力のピークが過ぎ、それまでの貯金がなくなるからだ。毎日運動することの効果は如実。走ろう会のメンバーは定期的に体力測定を行っているが、多くが実年齢よりも10歳ほど若い。中には90歳でホノルルマラソンに出場している人もいる。マラソン参加やスポーツ視察で海外各地に出かけることも多かった。例えばアメリカの保健体育は子供たちが楽しくなるような教科書を使い、自分で健康づくりを考える教育がなされている。教師も健康づくりのためにスポーツを行うという。
「価値観が違うのですね。日本ではスポーツは勝ち負け重視、見るもの。一方アメリカでは自分が取り組むもの。みんながスポーツのできる環境が整っています。健康のために一生涯続けていくようなスポーツが大切なんです。そのためにはもちろん日本の教師が行い、生徒に見せること。また学校の授業だけでない運動の場も必要です。ニューヨーク・シティマラソンのような大会も、そんな下地があって初めて実現できるのですね」
根っからの「教育者」でもある。

天野 耕兵衛(てんの こうへい)
1920年金沢市生まれ。長年勤めた中学教師から50歳の時に教育委員会への転勤を機にランニングを開始。走る爽快感、楽しみをみんなに伝えるために75 年金沢中央走ろう会創設。さらにより広範囲にランニングを伝えるために数多くのランニングクラブを開設していった。60歳定年後はさらに主婦向け、勤労者向けのジョギング教室を開始。生涯スポーツの普及活動を広げている。自身もホノルルマラソン連続20回出場の現役ランナー。

常に本気の指導をモットーに、陸上競技を通じて人間教育に励む

藤本嘉信さん

藤本嘉信さん

東京・新宿区に校舎を構え、敷地内にはグラウンドすらない保善高校陸上部を、全国高校駅伝出場15回の常連校に育て、入賞5回という素晴らしい成績に導いた指導者。
「私が陸上部の顧問になったばかりの昭和32年ごろは、一般の人には道路をランニングするという意識はほとんどなく、生徒と一緒にグラウンドまで走って練習に行く途中、警官から道路は走る場所じゃないぞ、と注意を受けたこともありました」
自身も高校、大学と陸上部に所属していたが、いつも順位は後ろから数えた方が早かったそうで、ある競技会では、ロード種目に出場し、ゴールの競技場に戻ってくると、すでにトラックには次種目のハードルが並べられており、仕方なく8コースの外側を走った、というエピソードもある。保善高校には英語教師として赴任し、当初は陸上とは無縁の生活を送る予定だったが、生徒自身から顧問を頼まれたことと、やはり走ることが好きだったという理由で顧問を引き受けることに。全国大会で活躍していた同校ラグビー部の影響を受け、駅伝で全国大会出場を目指すようになる。最初は、途方もない目標を掲げる藤本さんについてくる生徒はいなかったそうだが、雪の日でもランパン、ランシャツ姿で生徒と一緒になって走る藤本さんの姿に、次第に生徒にもやる気が伝わっていったそうだ。
「自分は本気なんだということを生徒に分かってもらえれば、自然に信頼関係は生まれてくる。どんなに技術的には素晴らしい指導者でも、生徒との間に信頼関係がなければ、なんの意味もありません」と、言葉よりも態度で生徒との信頼関係を築いてきた藤本さんの姿勢は今も変わらない。
ランナーズ賞受賞に際しては「私以上に熱心な指導者は全国にたくさんいます」と謙遜するが、藤本さんの競技に対する真剣な取り組みを示す指標の1つに、B4判の用紙裏表に試合や練習結果、部員に対するコメント、OBの動向などがびっしり書き込まれた部報「保善陸上」がある。多い時には、週に数回発行され、すでに2200号を超える数が発行されている。
「最近の教育は、生徒に考える時間を与える余裕がなくなっている。生徒もまた、自分で考えずに答えを求めたがる。しかし、自分で考えてこそ、本当の答えに辿り着ける。競技でも、生徒が自分で答えを見つけるための材料になれば、と部報の発行を思いつき、気が付けばこんな数になっていた」と語る。
また、藤本さんの指導法は、決して陸上だけが強いチームを育てるものではない。
「全国大会に出場できる学校数、人数は物理的に限界があります。そこに入れなかった生徒にも、高校時代に陸上競技に一生懸命取り組み、人には簡単に真似できないだけの何かをやったという思い出を作って欲しい」と、毎年、高尾から山中湖までを夜通しで歩き続けるという行事を行っている。
今年4月、校長職に就いたため、43年間務めた陸上部の顧問を引退したが、部報の発行は引き続き担当している。
「生徒からは、校内で一番元気がいいのは校長先生だと言われています」と、今年の元旦に自らに課した、高校駅伝の東京都予選が行われる11月5日までに2000kmを走破するという目標も、見事に達成した。

藤本 嘉信(ふじもと よしのぶ)
1934年東京都生まれ。1957年4月、保善高校に英語教師として赴任し、同校陸上競技部顧問に就任。自らも生徒と一緒になって走るなど、熱意あふれる指導により、1965年、全国的には無名に等しかった同校陸上競技部を全国高校駅伝に導き、初出場ながら4位入賞を果たす。その後、同校を全国高校駅伝の常連校に育て、監督就任期間中に全国高校駅伝大会出場15回、同入賞5回という成績を収める。2000年4月、同校校長に就任したため、43年間務めた陸上部顧問を引退した。

「医食同源」の生活習慣を実践する90歳の現役ランナー

馬杉次郎さん

馬杉次郎さん

明治43年生まれの現役ランナー、馬杉次郎さんの2000年は多忙を極めた。90歳の誕生日を迎えた1月は23年連続の出場となる枚方の「新春走ろう会」、4月には全国健称マラソン会(通称ZKM)の第31回全国大会の京都・天橋立大会に出場。5月には奥様の賀子さん(82歳)とともにカナダへ。自らが名誉理事を務めるバンクーバー国際マラソンで5マイルを73分37秒で完走した。5月には13年務めたZKMの大阪支部長を退いた(現在は相談役)が、『心の世直し運動』を提唱して創立した「全国ニューシルバーパワーの会」の会長として、東京・福岡と講演会に飛び回る。11月にはねんりんぴっくの大阪代表として3kmマラソンに出場、そして11月12日には自らが創設した「大阪リバーサイドマラソン」(現在は代表名誉会長)で健脚ぶりをアピールした。
「今年は90歳ということで、新聞やテレビにもたくさん取材していただきました。そして最後が『ランナーズ賞』受賞。ありがたいことです」
目も耳も達者。闊達とした語り口、おおらかな笑い声は、90歳という年齢を感じさせない。
学生時代はバスケットボールで鳴らしたが、会社員時代はとにかく仕事仕事の日々を送った。スポーツとは縁はなかった馬杉さんだが、定年で会社を退職後、仲間に誘われたのがきっかけで走る魅力にとりつかれた。64歳の時である。走り始めて数年後の78年からつけ続けているという練習日誌が、その歴史を物語る。カレンダーの日付け部分に走った日は丸印を入れ、レースの結果も書き込まれている。そして、今年のカレンダーにもおおむね丸印がつけられている。
「検査漬け、薬漬け、一億総半病人」との新聞記事を見て一念発起したのが88年。
馬杉さんは地元の枚方で「健康は自らの足で鍛えよう」をスローガンに「大阪リバーサイドマラソン」を創設する。自治体回り、自宅での事務局作業、スポンサー営業等の奮闘と熱意が実り、当初400人だった参加者は毎年増え続け、第13回には2000人を超える大会に成長した。
前述のZKMでの活動においても、「就任当時は30人だった大阪支部のメンバーを全国一の100人にまで増やしたのはひとえに馬杉さんの功績です」と推薦者の由比浜亨さん。
「私の経験では『医食同源』の考えから食事に重点を置き、快食、安眠、運動、休息とバランスの良い規則正しい生活習慣を心がけています」という馬杉さん。
戦時中を除いて、毎日ビール1缶と日本酒1合の晩酌を70年近く、朝起きて抹茶を1杯飲むこと、朝晩亀の子タワシで全身摩擦する習慣も50年になる。そして25年前からは、朝7時ごろから30~40分のジョギング+ウォーキングが加わった。
「私はなんでもやり出したらずっと続けるんです」という馬杉さんの健康を支えているのは、まさに「継続は力なり」の精神だ。
「ランニングはもちろん、これからは心の世直し運動にも力を入れて行きたい」
90歳の意欲はまだまだ衰えることを知らない。

馬杉 次郎(ますぎ じろう)
1910年生まれ。79年に高齢者(60歳以上)ランナーの全国組織である全国健称マラソン会(通称ZKM)に入会、88年から大阪支部長として活躍し、今年の5月からは相談役に就任。自らが88年に創設した大阪リバーサイドマラソンでは代表名誉会長。カナダ・バンクーバー国際マラソン協会の名誉理事、「全国ニューシルバーパワーの会」会長も務める。

自然に抱かれたホームコースで積極的な大会運営

武庫川スポーツクラブ

武庫川スポーツクラブ

「春は桜、秋はコスモスが咲き、冬には美しいユリカモメが飛び交う。そんな『武庫川』の魅力が、我々の活動を支えてくれています」と語るのは武庫川スポーツクラブの会長を務める高瀬実さん(68歳)。現在は会員数106人、自然に恵まれた武庫川を舞台に、毎月第2日曜日に開催するロード記録会など、各種イベントを積極的に開催する走友会だ。
発足のきっかけは、前事務局長(現相談役)の大道孝さんを中心とした武庫川を走る仲間が自然発生的に集まったこと。82年に正式に組織作りが行われ、現在第176回を数えるロード記録会もこの年にスタート。片道14kmがとれる土のコースは脚にやさしく、ハーフ・10km・5km・2kmの各種目を揃え、当日参加も可能だ。
「当時関西にはレースが少なかったこともあり、各地からランナーが集えるようにと考えました。会場にはランナーの情報交換の場となるよう、各地の情報や大会パンフレットなどが設置された掲示板も用意しています」と事務局長の官浪伸次さん(44歳)。
走友会の垣根を越え、誰でも気軽に参加できるようにというメンバーの思いは、記録会発足当初から受け継がれている。このロード記録会を柱に、5月に開催される人気大会「武庫川ユリカモメウルトラ70kmマラソン」、「くすのき残暑駅伝」、「月例マラソン(5km~フルまで)」といったさまざまなイベントが生まれてきた。
10月22日(日)に開催された「第12回ユリカモメマラソンin武庫川」のプログラムを開くと、全参加者525人の名簿の他に「最近の記録」と「ひとことPR」が掲載されている。
「もちろん手作業なので大変ですが、参加していただくランナー1人1人がどんな思いでこの大会に出場してくれるのか、ぜひ皆さんに知ってもらいたいと思いました」と官浪さん。
手作り大会のよさがここにある。クラブには副会長が5人、さらに彼らをサポートする運営委員が13人おり、各イベントを分担、200~300人規模の大会を運営する能力を備えているという。クラブ内にはウルトラマラソン、駅伝、ストレッチ体操などの同好会組織もあり、これらが有効に機能するからこそ、クラブ内に留まらないオープンな大会運営が可能になるのだ。
「メンバーからはさまざまなアイデアがあふれてきます。それをいかに形にするかが私の役割です」と高瀬会長。
視覚障害を持つ方とタンデム自転車を楽しむ会の開催、聴覚障害のランナーが参加するイベントでは開会式に手話での説明も行った。10月の「ユリカモメマラソンin武庫川」の参加賞には知的障害を持つ方々の施設で作られた陶器を参加賞にするなど、メンバーからは福祉関係への興味も現れてきた。
「運営する我々自身が『出場したい』と思う魅力ある大会を企画していく」
武庫川スポーツクラブのメンバーの夢は、21世紀に続いていく。

武庫川スポーツクラブ
武庫川を走る人たちが自然発生的に集まったクラブ。1982年に組織作りが行われ、正式に走友会として発足した。毎月第2日曜日に行われる「武庫川ロード記録会」(現在は176回を迎える)を柱に、「武庫川ユリカモメ70kmマラソン」など大会を運営。メンバー以外にも幅広く参加者を募るオープンな走友会として活動を続けている。


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